地下鉄道にのって - エムマッティーナ雑録

劇評家カトリヒデトシのブログです

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シネコンの功罪

映画街というのは、現在のシネコンとまったく異なるものだった。
まず、系列館制であった、「なんとか松竹」「大映なんとか」というぐあいに専属制であった。
さらに、5大映画会社にはそれぞれの得意なジャンルがあって、大映ならなんといっても時代劇、東映はやはりヤクザ路線になってカラーが鮮明になったし、松竹といえば文芸路線、日活は最初青春もので、つぎに無国籍アクションにいって、最後はロマン・ポルノと転変をくりかえした。
それぞれの会社の監督もスターも社員ですから、5社協定という悪魔のルールでしばられていたので、他社の映画に出ることは不可能で、黒沢の写真に健さんがでるとか、裕次郎と三船が競演するにいたった「黒部の太陽」にいたるまでそれは厳しい掟であった。健さんと裕次郎がクロサワのメガホンで張り合うなんて想像することもできなかったのであった。
だから、映画館自体も会社によって、また制作路線によって客層がまったく、ことなっていたものだった。
青春映画が得意だったころの日活と、アクション路線になったときの、日活とでは、ロビーの雰囲気が違ったものだった。売店のラインナップも違ってた記憶がある。
吉永浜田が海岸を走って、「青春のバカヤロー!」、なんていま思うと狂気のようなせりふを臆面もなく口走っていた時代は、熱にうかされていたわけなので、ロビーも売店もなんかあまったるかった。
東映で健さん、池辺良、純子さんにいれあげてた全学連がキャンディーをなめてはいなかったはずだ。
映画館の売店て、駄菓子やではないんだが、ガキのころから出入りしてた身には、なんか小さいスペースにいろんなものが詰まっている、夢のようなお店だった。子供はキャラメルとかジュース、大人はタバコやスルメイカなんかかってたようなきがする。
どうでもいいような話だと思っているかたも多かろうが、じつはここにも重要なことがあるのであった。

つまり(簡単にまとめることばで先を急ぎたくはないが)、映画と映画館て一体だったんだ。
そりゃ、パリのオペラ座でシャガールが奇跡のようにフィットしてるなんてレベルのはなしではないよ。また、「3丁目の夕陽」的なノスタルジィに逃げ込む話をしたいのでもない。
ただ映画の中のイメージと映画館が醸す雰囲気には、あるきりはなせない一体感があったのだといいたいのだ。
そりゃ、貧乏だったから、椅子だって高級どころか堅かった。穴だってあいてたかもしれない。
でも、5社それぞれの映画館にはそれぞれのジャンルにふさわしい空気があった。

ながながと書いたが、実はもうしわけないことに、これが現代のシネコンを嫌う、最大の理由ではないのだ。
いままでの話は、単に映画館てそれぞれに個性があってよかったね、という老いのくりごとに過ぎない。
シネコンがみな同じ作りで、こ綺麗だけどなんの味わいもないないというのは、べつにある意味どうでもいいことだ。ただ私が好きになれんというだけの話。

もっと深刻かつ、映画の見方を変えてしまう恐ろしいことをシネコンはやっている。
そこは、徹底的に追及したい。

以下 次号


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  1. 2006/09/30(土) 22:14:51|
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そうそう シネコンの悪口も途中だった

映画館がシネコンスタイル以外は崩壊してしまった話をしてた。
ま。ビデオDVDが公開から3か月とかでリリースされちゃうご時世だからなにをいっても無駄なんだが。
2番館、3番館という仕組みがなくなってしまったため。
シネコンにいかないともう映画はスクリーン・サイズでは観れないということになってしまった。
これはじつはゆゆしき問題なのよ。
むかしから、映画基地外入ってる人がフィルムやLD(もう知らない人もいるだろうな)やビデオを収集して自宅にミニシアターつくってよなよな鑑賞するという話はあった。
ゲイツくんのように3人家族の屋敷にフルスクリーンの劇場、3つも造っちゃうスーパーな基地外は別格としても、自宅にミニシアターとういのは、映画マニアにとっては夢であった。
それは、大好きな映画を『何度も』観たいという純なおもいからであったはずだ。
ここ重要よ。テストにでるからね。
つぎに来るのが、好きな監督、脚本家、俳優(スター、脇役)の本邦未公開作品を収集したいという、これもやはり純なマニア魂からであったと想像するに難くない。

つまり、みんな映画観たくてたまんなかったんだよね。
手塚治虫の有名な話にディズニーの『バンビ』に感動した彼は朝から晩まで繰り返し繰り返しバンビを見続けて関西中の2,3番館まで追いかけて3か月で300回観た。というはなしがある。

いまのみんなは映画は繰り返し観るものであることをすっかり忘れている。せいぜいで昔観たやつがテレビでかかるとなんとなく観ちゃうていどか…。

映画は鑑賞するものから、消費されるものに変わってしまった。
音楽をすこしでも楽しめる人なら言わずもがなでわかっていただけると思うが、
「あ、モーツァルトのジュピター? もう一度きいたことあるからもういいや」
ってことにはどんな時代がきてもならないのである。
ビートルズだって、BOAだって、みんな繰り返しきくではないか(そういうのを昔は、レコードがすりきれるまで、などともうしました)

なぜ、映画だけが、みな繰り返しみるのをやめてしまったか?

これは、最大の原因は、目からの刺激はすぐに慣れてしまう。という点にある。現在の映画が、誰も見たことない画を求めるあまり、刺激的なシーンにばかり力点をおくことにある。

そのせいで、アングルの美しさや、フレーミングの妙や、シークエンスによって話がいかにスムースに進行するかという、「映画の文法」を学ばずに映画を見るのが当たり前になってしまった。
くだらないカーチェイスや爆破シーンが映画だとおもわされてしまっている。
当然カット割やまなざしによる心理描写も理解できず、どなりあってばかりいる映画ばかりになってしまう。

しかし、それはソフトの問題であるだけではない。
ここにシネコンの重大な罪があるのである。
理由は2つ。
全国公開と入れ替え制である。

つづく


  1. 2006/09/27(水) 22:53:20|
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ようやく 東野圭吾のとばくち

ながながとミステリについて、述べさせていただき、恐縮だった。

まとめてしまえば、実に簡単なことである。
立派な「純文学」(笑)じゃなくても、文学には「力」があるということ。
エンタテインメントであっても、単なるお楽しみだけでなく、まだまだできることがある。読み捨てられていくにはもったいない。
「お楽しみはこれから」なのだ。

ということで、最近私が買っているのが、東野なのである。

他には誰がいるかって?
 確かにそれは判断の基準になるだろうから、あらかじめ公表したほうがフェアなきもする。

ちょと恥ずかしいがあげておく、
まず、文句なしレベルが、高村薫、宮部みゆき、京極夏彦、こりゃビッグネームすぎるな(でも太極宮のもうひとりはいれない)、原リョウ(もっと書いてね)、吉敷ものの島田荘司(なぜ御手洗シリーズじゃないのかはまた長い説明がいるので後日)、法月綸太郎、すぐ思いつくのはこれぐらいかな。
つぎに、条件づきなのが石田衣良、奥田英朗、伊坂幸太郎、乙一かな。
お気づきのとおり、現役バリバリにかぎってあげてる。
さらにハードルを高くして、浅田次郎、綾辻行人ぐらいまでだと思う。
私が批評しようと思うのはね、いまのところ。

全員をひとくくりで論じるなんてさすがに、無謀きわまりないが、おそれず言えば、

みたことないとこにつれて言ってくれる

ってことにつきるかな。
それは、SFやファンタジーのように、別の現実ではなく。いまここの現実をぺロってむいた世界ってことね。SFは20年も現役離れてるし、ファンタジーにはどうしても意地悪になってしまうので語らないことにしてるので、ミステリ系が主になるんだけど、無理に新しい世界を造形しなくとも、この現実にまだまだオソロシイ世界があるということです。

意外とありきたりな話になってしまった。
概論、総論はそんなもんだ。
なにせ、神は細部に宿りたもうからね。

で、明日こそ東野礼賛をば…


  1. 2006/09/25(月) 21:38:04|
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ようやくようやく 東野圭吾

このところ、話が取り散らかっていて、読みづらいという
、苦情が寄せられている。
しかたないかも、ムキになる話をあわててかいてるからね。
そのうち評者の方向性が見えたらわかりやすくなるかも。
もっと文章がうまくなればいいんだろうが、それは朝三暮四には、じゃなかった。一朝一夕(うーむ、いま変換候補でできた、1000000000001隻というのも味わいぶかい。どこかで使おう)にはいかんし、ま、『ながーい目でみてください』(小松政夫)ということで。

まとめると、ミステリは謎を筋の中心におくと人間が薄っぺらになる。人間を中心に置くと、「ブンガク」になりすぎちゃって、エンタテインメント性、読んでて楽しい、センス・オブ・ワンダーでわくわくするどころか、読みづらくて、眉間に皺がよってしまうなんてことになる。
巷間伝えられる、日本三大ミステリは、まさにそれで、「ドグラ・マグラ」にしても、「虚無への供物」にしても、「黒死館」にしても、格調は高いが読みづらい。謎の壮大さに確かに魅力はあるものの、そして事件の解決とともに人間の「生」の深淵がかいまみられる。というワンダーはある。人間の闇に光をあてるっていうかね。
それはたしかに、非日常を扱うミステリだから(普通の人生では、吹雪の山荘で連続殺人に遭遇するなんてことは、人生百回やってもないわな)、人間の暗黒面や悪魔的なところを表出しやすいってことなんだけど。。。
どうですかみなさん、ぶっちゃけ、もうそれも飽きてきやしませんか? どんなに陰影にとんだ主人公を造形しても、そんな崇高な人はすぐ隣にはいないし、ラスコリニコフも友達には(友達になりたいか? はともかく)いない。
人間のダークの追及っていうのも、人間の可能性を掘り下げる、拡張するってのは芸術の義務だからいいんだけど。それって私たちの普段のくらし。ささいな生活、控えめな人生とはあまりにもかけはなれてしまっている。
なんかそういう、大上段の『ブンガク』って、もちろんどこかでやっててくれる人がいないと困るんだけど。最近の私にはちょと重いってのがながなが書いてきた、ひとつのプラトーなんだよね。

そこで、東野を褒めたいの。
彼の作品には天才的な名探偵はでてこないし、超絶技巧トリックもない。でも『鳥人計画』の科学トレーニングにとりつかれたコーチの人間像、そして真の新犯人の動機を知ったときの読者の驚愕は、ながながとつらねた、「謎とき」だけでもダメ、「人間の掘り下げ」だけでもダメといっている私の論をおわかりいけないだろうか? 
受賞作『容疑者Xの献身』なんて、ある意味題名でネタバレを宣言してしまっているのに、読了したときにその題名が、犯人の動機の深さとともに、これだけ心にせまってくるのはどういうことだ。
謎が解決して、事件が終わっても登場人物は幸せにならないというハードボイルドとはまたちがう。人間の深淵を突き付けられて驚愕に突き落とされる、というのとも違う。
犯人の動機だけでなく、事件に関わった人たちの思いが、読んだものに、押しつけがましくなく、重責としてではなく、さざなみのごとく余韻をひろげていく。
衝撃でうちのめされても、人はタフで意外と時を経ずに立ち直ったりしてしまうものだが、こういった、じんわりとした思いの波紋はなかなかいつまでも消えないで、長く心に残り、泣かせるのだと思えてならない。

だって、『宿命』の最後の1行。『秘密』のラストなんてどうよ。
このさき何があっても、忘れないじゃないですか。


  1. 2006/09/25(月) 00:02:00|
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シネコンは正しいのか?

名画座が崩壊してしまった。
銀座並木座、飯田橋ギンレイ、佳作座、池袋文芸、地下。
かつての映画青年たちが、涙とともにマクドナルドをほおばりつつ、スクリーン食い入るようにみつめ、精力を傾けたスクリーンは、ビルのワンフロアーになってかろうじて残っている文芸以外、なくなってしまった。
渋谷の前線座や東急名画座までしっている世代としては悲しいことかぎりなし、ニコタマの東急や鶴見文化まで足をのばしていたのにぃ。
トイレのにおいが立ちこめてたり、思い出話に必ずでてくる、扉を入るとそこには柱が…。なんて映画館ばかりだった。
最近は単館ロードショーが増えて、ちょとおしゃれな、横文字名前ですぐには憶えられない系の映画館が増えた。どれもむかしの岩波映画みたいに、自由定員制とやらで、通路に新聞紙敷いて座り込むなんてもってのほかである。

「ロッキー・ホラーショウ」のオールで、今となってはコスプレでかたづけられてしまう異装に狭いトイレで着替えて、上映開始とともに踊り狂ったり(念のため、ディスコなんてない時代のはなしですからね)、東映や日活の無国籍アクションなんかだと、オールで寝込んでいた客が、健さんがダンビラもってのりこんだり、旭がエースのジョーと一騎撃ちするシーンになるとやおらむくむくと起きだして、「待ってました! 健さん!!」とか「アキラたっぷり!!」とか、まるで全共闘時代の雰囲気が髣髴とされたもんでした。
(ダメだ。今回も老いのくりごとになっている…)

ま、昼も夜もまだ映画館の持っていた「異界」性がビンビンであったということでもしっててほしいのよ。

それもさ、単館といっても、シネスク東急やシャンテみたいなクオリティならいざしらず、なんじゃここは試写室かというようなのまであって、椅子は悪いは、スクリーンは小さいは
、妙な内装で落ち着かないは、である。
(あ、これは説明いるか。名画座にはひどい映写環境あったよ。スクリーンの横がトイレってのは先にのべたが、新宿には階下のジャズ喫茶の生演奏がビンビンに響いてくるので、朝一しか落ち着いてみれないなんてとこもあった。なんせすべての映画が「死刑台のエレベーター」ばりになっちゃ
うんですから…)

おしゃれじゃなくても、いい映画が安くみられればいい当方としては、映写環境とは関係ないんじゃないってとこに金かけてるのがきにいらない。なにさ売店でうってるもの以外は持ち込み禁止って。

劣悪な環境でも、「こんな映画を、この組み合わせで上映する!! こんなの俺がいかなかったら誰がみてやるのさ!! 映画に失礼だ!!」と力こぶつくって勇んで行ってしまうような。ラインアップの妙が、興行主とファンのあいだでたたかわされていたのであった。

そこで、シネコンの話である。
第何次目かの日本映画の隆盛はまことに喜ばしい。異業種からの才能の流入が新風を巻き起こしているのは、ご同慶の至りというにつきる。金が動く業界になったってことだ。

しかし、それはほとんどシネコンのおかげである。ショッピングセンターの階上に付随したシネコンが、かつてのデパートの食堂のように休日の人集めに貢献し、回遊効果で階下の売り場も成績をあげる。うまく回っている。そのおかげで話題を先行させておけばまず外れはないし、それなりの集客がみこめる。
ビデオやdvdがこれだけ普及して、すぐにレンタルで見ることも可能なのに、みな律義に封切りで話題作はおさえにくる。

しかししかしだ。
それって映画にとって幸せなことなのだろうか?

ちょっと 中断


  1. 2006/09/25(月) 00:00:00|
  2. 社会批評
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やっと 東野圭吾を褒める

というきのうの知りきれトンボ(この呼称ってそろそろグリーンピースからチェックはいるんじゃないか? どう見ても動物虐待だよね)から、東野を全面的に褒めるぞ!!

最初、おや、と思ったのは、登場人物のキャラクター造形だった。
フロイト
俗に本格ものといわれるミステリが「不可能趣味」にはしるあまり、無理な設定にはしって、トリックのためのトリックを要するから、それがまた連続殺人にしないと話がもりあがらないから、なんだかよくわからない、単なる点景のような登場人物が思わせぶりな行動して、なんか謎めいたことを口走るやいなや、翌朝には殺されているという、時間が押している2時間ドラマみたいなものばかりになってた時期があった。
だから、トリックのためにストーリーをつくるという本末転倒が(ま、いまでもそんな作家いるんだろうけど)、残念ながら多かった、だから事件に翻弄される個人の悲哀をえぐった「社会派」が台頭したり、謎ときを極限まで薄めて、旅行案内だか、観光案内だかわからんような、テイストの薄い「ゆるいミステリ(ほんとはそれに分類したくないようなものまで)」が量産されていた。
だからトラベルミステリといわれるやつは評価してなかった。西○○太郎とか、内○○夫なんか2冊ぐらいよんで、馬鹿にしてましたがな。ほんとに日本の量産態勢は不幸である。昨日も書いたけど主人公や事件の枠組をパターン化でもしないことには毎月毎月書けませんて、同情しまっさ。

島田荘司をしるまではね。ふふ。

そんなこんなで新本格派が現れてきたときも、「不可能趣味」の復権というのは喝采したものの、同時に不安を感じてもいた。御手洗や館も嫌いじゃないし、アイディアは十分評価するけどさぁ。
でも、根本の話、

小説としてどうなのさ!!?

ってとこなんだよ。問題は!
ミステリがエンタテインメントとして、読み捨てられていく、せいぜいが2時間ドラマの原作として消費されていくのをみてるのは、ファンとしてはとても悲しいことであった。

毎度の話で恐縮だが、マーロウもので、都会小説の何たるか、つまりコンクリートの林立のなかで現代のドン、キホーテはいかに孤高にいきるのかを学び、アーチャーに精神分析、フロイト派のロベール、ランクのファミリーロマンスやエディプスコンプレックスをマナバシてもらった身としては、また日本にも、原リョウが現れ誇りに思った身としては、小説として心に残ることなく、読み捨てられていく風俗小説に堕している現状がはがゆかったのである。
(あ、風俗小説のすごさはまたいつか小林信彦のときにやるからね)

すまん 今日も続きだ


  1. 2006/09/24(日) 22:24:11|
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英哲 礼賛

ということで、国立劇場「日本の太鼓 空海千響」を観に言行ってきた。
もちろん昨日くさした、鼓童の口直しのためである。

第一部は、郷土芸能の紹介になっていて、朝日豊年太鼓、江刺梁川金津流獅子踊、佐原囃子とかがおひろめ。
地域に根差した芸能を舞台に載せて観賞するってのは、どうなの、って部分はあるけどさ、顕彰して、伝統を継承していくという考えにたてば、よろしい部分もある。
芸能の多様性が新しい創造にインスパイヤをあたえることもあるやにしれず。

で、第二部、一部ではちょっとしかでなんだ英哲風雲の会が全面で活躍し、声明とのコラボ(このことば手垢がついたし、バブル的な軽薄さがよろしくないが、ま、わかりやすいってことで採用)とか楽しかったが、例によって(分る人に判ればいい)山口小夜子がでてきて踊りはじめたあたりでやな予感が…
あんまり英哲のソロパートがないし、それでもって踊り付きって… 玉さんでないんだからさ… 
こりゃこなきゃよかったか? 昭和は遠くなりにけるかも、か。
と暗澹としかかった最後の演目。
こりゃ、よかった!!
安心した、昔のように一人っきりで叩き続けるというのまでもはのぞまない。若い者と一緒にズドンズドンいくのは、待ってました感が、ひとしお。さすがにリーダーによく鍛えられているようで、みな良い音を響かせていました。
太鼓の夕闇が見えたような気がする。

私が聞きたかった、あるいは、生でやっつけられたかった響きはこれなのであった。
ありがとう、英哲

ぼくの80年代は幻ではなかったよ。。。


  1. 2006/09/04(月) 00:01:00|
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鼓童をみた そして 日本の太鼓

かれこれ25年前、鬼太鼓座が現れた時、衝撃だったっす。当時は西洋音楽偏重からの離脱の動きが結構あって、芸能山城組が元気に活動したり、渋谷や六本木の西武系などの、おしゃれっぽいレコード屋に民族音楽のコーナーができたりしだしたころである。
そんな中で、和太鼓にこだわった鬼太鼓座は、佐渡で共同生活(暗黒舞踊系ですな、集団生活というのが)をし、毎日20キロ走りという肉体派だった。
そしてその鬼太鼓座の生んだ最大のスターが林英哲である。

カッコよかった。鍛えあげられた肉体で六尺一本で3メーターを越える和太鼓を打ちぬく。その音は、遠い時代に眠らされてしまった、「野性」といったものを呼びさますような熱い血潮をかきたてる「熱」が確かにあった。
打楽器が単なるリズム楽器になってしまっていたことをこんなに感じさせられたことはなかった。
音楽が肌を突き抜けて直に心臓をわしづかみする快感に酔った。

先日、現在では「鼓童」と名前を変えた一座の公演に20年ぶりにいった。玉三郎企画演出である。
すげぇ、期待してったもんだからそのショックははかりしれなかった。
なんじゃあの軟弱さはかつて築いたあの肉体、あの存在を揺さぶるような熱はどこへいってしまったのか?
サンバドラムなんか叩いてやんの!!
おまえらが目指してるのは、目指していたのは、そんなことじゃなかったはずだ。
リズムじゃないだろう。
叩くことをとおして、魂にせまるんだろうが!!
和ダイコも足で挟んで後ろに反りつつ反動で叩くというのをやったが、打ちぬくというには程遠く、背筋がプルプルして

んのが情けなかった。きちんときたえてるのか?
で、玉さまがひらひらと踊りなさるものだから、なんだかわからない前衛の舞台になってしまってる。
ということで、情けないやら悔しいやらで帰ってきた。

とほほ

(続く  明日は英哲だ!)


  1. 2006/09/04(月) 00:00:00|
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花田少年史 本題

昨日は子役の話で興奮して、本論に入る前に時間切れ退場だった。
さて、今日はいよいよレビューを

始まった途端、あまりにもチープなCGの連続で、いまどきにしては、そのクオリティの低さに愕然!! クロマキーぐらいきちんとやれよぉ。とかぶつぶつ言っているうちに、映画は本題に、母が篠原涼子、父が西村敏彦と予感させる配役なんだが、その持ち味が発揮されるのはずいぶん広範のことである。笑いをはさみつつ展開していくストーリーはなかなか深刻なもの。
少年といえども、なかなか世間の荒波ってやつは見逃してくれやしない。のんきな子供の役割はまわってきやしないのである。
子供たちの人間関係も複雑になりつつ、話は父母の過去へ、そこで大事なキーマンになるのは、北村一輝、今回もろくでもない人間性でいつもどおり損なやくである。
ここで西村が信じられないような安でのかつらをかぶって若いころを演じるのだが、ここでもそのクオリティの低さに驚き、目をみはった。
まじめに映画撮る気があるのかぁとツッコミをいれたくなるほどのゆるさなんだが…

そういった適当&手抜きな画を見せられ続け、いつもの私だったら暴れだしそうになるところなんだが、この作品は、あにはからんや。ストーリーにそういうぐだぐだなところを一挙に払拭してしまうものすごいパワーがあるのだ。
普段、映画は画だ! 画が動くことこそ映画の神髄だ!! シシークエンスやアングル、画の切り取りかたで酔わせてくれれば、ストーリーなんか二の次だ!! と豪語している私なのであるがその持論(結構強固な論陣はってんだけどなぁ)をうちくだくに十分な物語の力があった。
最後の対決のシーンといい、ストーリーにも、ださくてケチをつけようと思えばいくらでもことかかないわけだがここは、一応引き下がって、物語の力に敬意を表しておこう。
こういうのもいいよね。ってことで


  1. 2006/09/03(日) 20:05:05|
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東野圭吾「鳥人計画」

「秘密」、「白夜行」ときて、次は「手紙」も映画化される、万年候補がようやく受賞にあいなった直木賞作家、東野圭吾の旧作である。
受賞作「容疑者Xの献身」も上記作品とならびたいへん良質な作品だったが、彼の作品を時系列できちんとよんでみると(もっか続行中!)単なるトリック趣味の新本格派の作家たち(それはそれで評価してますから綾辻先生他京大ミステリ研のかたがた)とそもそもがことなり、人間を描こうという壮大な志を感じる。
凡百にいわれる本格が人間が描けてないというありきたりな批判をしたいわけじゃないからね、念のため。新本格も高く買ってるんだからね(しつこいか?)。
それは裏返せば、ミステリを文学のために利用しているとか、ミステリの知的たのしみを低く置き、人間に奉仕させているとか、一理ありそうでその実まったく見当ちがいな批判に通じる。
むしろ東野はミステリの知的遊戯性を損なわず、犯罪の中に、犯罪に巻き込まれてしまう「人間」に普通の状況ではなかなかにたどり着けない人間の深淵感じ、それを切り取ってくるところに先進性があると思われる。
って結構絶賛ですね。

で、この「鳥人計画」ですが、スキージャンプ競技を舞台にしているが、スポーツのトップの世界を描き、そこでのアスリートやスタッフの苦悩や異常性を切り取れている。また、近年の作品ほどは動機の超越性(それを理解することが人間の理解がまた一歩深まるような超俗性)が鋭く描かれているわけではないが、確かにその方向性を感じる優れた可能性がある。

作品は犯人探し(フーダニイット)ではなく、動機と、2回にわたる犯人への警告、告発をしたのはだれか? というおうして犯人がわかったか? を含む告発者探しの仕組みを持っている。そして殺人の動機と、どんでん返し、そこでもう一度見直される動機とかなり複雑な構造をもっている。

今絶版になっているようでもったいないはなしであることよ。


  1. 2006/09/03(日) 00:01:00|
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