地下鉄道にのって - エムマッティーナ雑録

劇評家カトリヒデトシのブログです

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

冨士山アネット「不憫」

アネット50分。荒っぽいところが散見するものの、総体的には意図が明確で印象は明瞭。何よりも体の接触の仕方、組み方が、カンフーそのもので小気味よかった。ワイヤアクションで飛ぶかと思った。



スポンサーサイト
  1. 2008/12/28(日) 00:00:00|
  2. カテゴリ未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

コロブチカ 「proof」

「俳優座」がやりそうな、カッチリした翻訳劇を王子小劇場で見られるとは!!

(笑)。さすが黒澤世莉! 

そんな誉められ方をしてもうれしくはないだろう。
WIPも行った身としては、稽古から本番へのブラッシアップの過程に興味がわいた。

「わぁ、おもしろい」って舞台でも、感動で持ってかれて涙ウルウルという舞台でもないので、冷静に役者の演技に注目できるので、けっこうガチで取り組まざるを得ない役者陣はたいへんだったろう。

でも、コロがこんなのをやりたいと思うことに、驚き。で、できちゃう実力に… あ、こりゃ、そんなに不思議じゃないか、「柿」でしごかれてるもんな。

収穫は「リュカ」のこいけけいこ。今回はとても、美人でしたぁ。


  1. 2008/12/27(土) 00:00:00|
  2. 演劇
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

畏怖と尊敬

批評者は二次的な存在だとおもわれがちである。
創造者がいてこその批評だと断定されたりもする。

しかしこれもまた小林秀雄以来の言説になるが、批評者はその作品がなくても別の作品に出会うのである。
メタ言説もまた、創造なのである。

しかし最近多少なりとも文章が読まれる立場になって改めておもうのは。
同じ創造者として、作品を創造するものへの連帯と共感である。
そしてその時何よりも大切だと、自分自身が思っているのは、創造者への畏怖と敬意である。
この作品をうみだしてくれてありがとう、という気持ち。
それが失われる時があったら、筆のを折ろうと思う。




  1. 2008/12/26(金) 00:00:00|
  2. カテゴリ未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

恥ずかし話

割りと、マメにフライヤーをとっておく、販売されてるパンフはまず買わないが、配布されるパンフは資料として、キチンとファイリングしてある。

といってもダイソーで買った100円クリアファイルに差すだけなんだけれどもな。
一度で覚えられる役者はまれなので、見た記憶のがあって、こりゃ今後要チェックや!と思うと、ファイルをひっくり返す訳である。

小屋でもある程度、精査するんだが、それでもけっこうな数たまってくるのだ。

で、毎週のようにけっこうな時間を使って、整理に追われる。

それは結構たのしい時間でもある。

また、開場時間ともに着席し、フライヤーチェックをするのは、聖なる儀式である。

あ、ここ知らない、とか。

まだ、この公演チラシまいてる、とか。変な楽しみもある。

(ま、後者は諸事情で長く入れていることも多く、一概にチケットが余っているということではないので、念のため)

 

で、恥ずかしい話はここからである。

家で整理してたら、前日マチソワでみた、サンタクロース会議のパンフが1部しかない。

子ども参加型もアダルト編も同じパンフだったので、あれ? 捨てて来たっけ? と思っていた。
で、その日の出撃時間になり、寒みっ、とかつぶやきながら、家チカの711コンビニの前に差し掛かると…多くの人に踏まれた跡のついた、件のサンタクロース会議のパンフが、地面に張り付いているではないか!!

自宅はさいたま市といえども、けっこう奥まった地、はるばるしかもウイークデーにアゴラに行く人は……犯人は自明である。

恥ずかしくって拾って捨てようとした私、するとそこにいきなり、店内から顔見知りのアルバイターが飛び出して来て、

「ありがとうございますっ!」

と直立不動でお礼を言われる。

真実を自白することもできず、顔から火が出つつ、モゴモゴしてしまった…

711関係と、アゴラ方面に、深く頭をたれて、反省の意を示す…




  1. 2008/12/22(月) 23:15:37|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

三条会「弱法師」 (完成)

11月公演と全く異なる演出は、三条会のレベルの高さをみせつけ、証明するすごさであった。


関さん本人が、演出家として劇団の稽古をつけてるという、枠組みを維持しつつ、適宜三条会風のノイズが紛れ込み、飽きさせない。

両家の親たちが全員男で、MIBのスタイルで登場。

セリフはいつもの通り力強く太いもの。


「悲劇的な境遇にいるものが暗いとは限らない」

という演出家の指示が飛び、時々、役者たちの本名を呼び、演出家の口調で三島のセリフをいう、役者たちは付けられた演出に答えるように、続きのセリフを言う。

この絶妙な感じ。

自由になった役者たちは懐深く、ジェンダーをこえ、親の姿をを造形していく。

関さん自身が主人公になったところで、大きくドライブがかかってくる。

「カゴメカゴメ」で俊徳を中央にすわらせる振る舞い。

親たちの並びを、俊徳を中心に対角線で配置し、傲慢な息子に振り回される親たちの失われた尊厳と、家族というバランスの不均衡が暗示される。

クライマックス、俊徳が経験した東京大空襲の業火の中での失明と、その最後の光の中でみた、地獄の光景を高らかに語る場面では、大抵の演出では、悲劇の極として、大仰に描かれるものだが、ここでは、いきなり「幸せなら手を叩こう」をフルコーラス、ジェスチャー入りで歌う。

その脳天気な歌と振付が、驚くほどつきささってくる。

悲劇を「悲劇的に」見せるのではなく、対極の脳天気で見せる。

ジェスチャーの組み体操的な踊りが、業火にまかれ、人形のように燃え上がりばたばたと死んでいく戦災被害者たちのぎくしゃくとした動きに見えてくる。

そこに巨大な虚無がぽっかりと口をあけるのが見える。

激烈な「悲劇」が観客に襲いかかってくるのである。

戦慄の演出であった。

「遊び」というには、あまりにもの強い意志が感じられる。

中心や主題といったものにストレートに到達していくことを回避し、そしてその遠回りこそが、現代では深淵に近づく唯一の方法ではなかろうか? 

という三条会的な提示はいつものように強烈な力をぶつけてくれる。

新演出。よくまぁ、1回作ったものをここまで、やり直すことができるものだ。

 




  1. 2008/12/21(日) 00:00:00|
  2. 演劇
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

電動夏子安置システム 「そのどちらかは笑わない」

錯覚三部作最終章。バックヤードもの。

2作品が同時上演されている楽屋という設定で、出突っ張りを除いて、役者たちも両方をかけもちで出演しているという話。
今年、下北沢駅前、OFFOFFで行われて、度肝を抜いたクロカミショウネンの「祝/弔」を彷彿とさせる。また、電夏ならやりかねないと思わせるような、アホ公演にしたてあげたのが、説得力がへんにあっておもしろい(笑。ごめんね)。

そこに早変わりと出ハケの複雑さという要素を軸に、楽屋泥棒、後輩へのセクハラ、ビデオ撮影、封建的な先輩後輩関係とが絡み合い、さらにその上にタイムリープものを加えた。どうだごちゃごちゃだろう!(私が自慢してどうする)
結果、いつものように陰謀がうずまく、(他にいいようのない)電夏らしいフーダニットを展開する。

今回の主役は「香盤表」である。
香盤とはご存じのとおり、お寺の香立てがもとの歌舞伎用語。役者のシーンごとの出ハケを示しているものだが、普通は役者よりも、小道具、持ち道具の管理確認に重要なものである。
ところが今回は、なんせ2つの舞台が同時進行し、演者さんがかぶっているというのだから、全員が香盤表が頼り。
楽屋で次々起こる事件に対応しつつ、上下の舞台へ出たりはけたり、そこに時間がポンポンとぶというSFまで介入してきます。
さらにその時間が何度も繰り返される。
1回目に悲劇的な結末が起こってしまい、2度目からは「繰り返し」に気付いた者たちがそれを回避しようと奮闘する、という…
どうだ! ごちゃごちゃだろう!!
(だから自慢するところじゃないって)

今回、客演なしの劇団員のみということで、遠慮なく、それぞれが嫌なところをぶつけあうガチ勝負をみせつける。
正直言って、普段、もたつきも感じるところもある役者陣だが、えげつないところが見せ場となる今回、なかなかよい個性を発揮した。

整理し切れていないところはある。
そこまで込み入らせなくても、十分面白いはずだ。
もう少し、空間を広くみせる演出をこころがけよう。
など、細かいところにはいいたいことはある。

でもね
こういう、他の誰もやっていないことを、
自分たちを信じてやっているやつらを
誉めないでどうする。と強く思うのだ。
だって、面白いぜ。

誰もついてこないだろうことが予想される道だけど
迷いなく、突き進んでほしいと思う。



  1. 2008/12/20(土) 00:00:00|
  2. 演劇
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

コロブチカWIP (完成)

コロブチカのワークインプログレスに行く。

「ワークインプログレス」とは、公開通し稽古だと思っていただけたらよろしいかと。

「なんだよ。客に未完成なものみせるのかよ」という声があるのは知っている。

演出家の黒澤世莉は、「長い公演だと、確実に、2週目の方がしあがりがいい。それは稽古時間とかの問題ではなく、観客の目に触れることが、役者のみならず、芝居を熟成、完成させるのだと思う。どうやったら、初日から、2週目の状態に近づけられるか? とずっと思っていて、WIPを試みることにした」

というようなことを、稽古後、見に来た人に丁寧に告げていた(ことばはそのままではありません)。

金払ってるからといってそんなに客が偉いか? というとそうでもない。

なんせ客は、芸術の奥底に潜む「秘儀」に立ち会い、かいま見させていただいているわけである。そうかといって、作り手のように完全に芸術に跪き、奉仕する存在でもない。

ま、いいものを見せてくだされば、それでいいわけなんだから、そのためには、「稽古ぐらいつきあうぜぇ」というのが、私の考えである。

おもしろいんだなぁ、これが。意外と飽きないんだなぁ、これが。

で、確実に、本公演を見てるのと、全くことなる感想をもつ。

どんな芝居でもという訳にはいかんだろうが、選べば、かなり、勉強になる。

なんせ、稽古場ですから、「出待ち」の時、役者がなにしてるか、どんな表情か。

それぞれが、どうやって集中するのか。などというのが丸見えである。役者の素顔がみれるというミーハー的な喜びもあるものの、それより「役者」というものの生態や仕事に臨む姿勢が見られることは、今後の観劇に参考になる(もちろんそこも見られていることを役者も分かってのふるまいだが、その「部外者」がいることの緊張がよいのだと思われる)。

という「場当たり(芝居用語できっかけを確認する稽古のこと)」も少し含んだ、通し稽古をみるのである。

この際、演出家が言っていたのは、「演劇で演出家がなしうる、最大のことは、照明である」ということで、通し稽古は普通の明かりの中で行う。

つまり「ゲネ」ではないんだな。そこが、このWIPのおもしろいところだ。

 「プレ公演」という形の「ゲネ」を見せて、金を取る(もちろん本公演よりは廉価だが)というものより、無料で「通し」を見せて、ただ立ち会っているのではなく、作っていく過程に立ち会うという感覚。

これはおもしろいですぜ。

ぜひ、興味がある方は参加してごらんになるとよい。

 




  1. 2008/12/19(金) 00:01:00|
  2. 演劇
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

トラム「ある女の家」 (速報)

カンパニーデラシネラ。小野寺修二、藤田桃子(水と油)、浅野和之(公房スタジオ、遊民社)、河内大和(栗田シェイクスピアカンパニー)、藤田桃子、

上手にガラクタの山、木組みの小型の家、下手に黒電話の乗った事務机
マイムをトレースしつつ、リピートしていく。ノイズが絶妙に混入される。
上質なスラップスティックコメディを見るような
ハーポマルクスに見える浅野の力。



  1. 2008/12/19(金) 00:00:00|
  2. 演劇
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

サンタクロース会議(速報)

まず、子ども参加型を、子どもたちと一緒に見る。

いつものあごら総勢26名はグリーンの布が敷かれた、桟敷席で集まる。親たちは椅子。子どもたちだけで芝居に向かわせる。よいアイデアだ。どうやって観客を増やす。かという抜き差しならない課題に正面から向き合おうとする、平田と団には心底敬意を払う。ワークショッブで興味を持ってもらい、劇場に呼ぶ?。ここまでやって、育成は完成する




  1. 2008/12/18(木) 00:00:00|
  2. 演劇
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

柩の蓋をあけるということ

久しぶりに、
芝居を見て、テンションが、だださがるという経験をした。

カーテンコールに拍手もできなかった。

新国立で柳美里+金守珍の「向日葵の柩」をみる。

91年だったかの初演を見たことをすっかり忘れていた。
そうかあれは梁山泊が主体の(主催の?)公演だったんだなぁ。
不忍池でみたのだった。

で、そうそう、たしかに柳美里だったのだ。
あの後、彼女はめざましい活躍をするが、演劇とは遠ざかっていった。

90年代当初、バブルが沸騰する直前、
まだ多少は左翼的な空気がわかるぼくら、遅れてきた青年たちに新宿梁山泊は魅力的だった。
紅テントをより在日の深みへと測鉛を垂らした彼らは、紅とは別の強烈をぼくらに与えてくれた。
「人魚伝説」は忘れられない。

あの、深いコンプレックスと重厚な葛藤とが織りなされるストーリーは、根深いというのではすまされない、差別の深淵を十二分に見せつけてくれた。
そういう戦慄を与えてくれて、ありがとうと言っておきたい。

そういう人間存在の根源をナビゲートしてくれたかれらが、今はどうなのだろうか。
実は今年、紀伊国屋で「リュウの涙」という梁山泊の本公演をみてショックをうけた。
若い役者たちがしゃべってるセリフに、深いコンプレックスや葛藤が感じられず、セリフが肉体化されていないというか、ことばに強度が感じられない気がした。

さらに今回、かつての名作の再演ということである。
おそるおそる見た。

結果は…あんなにも感動した芝居がすこしも、心にこないものになった。

どこでも、再演こそが、レパートリー公演こそが、演劇を救う重要な鍵になると、いいつづけている手前、実に都合悪いことなんだが、これではかつての名作舞台を再演することの、恐ろしさだけしか残らない。

時の流れは恐ろしい。
まったく芝居の世界や人物像、家族像が現代の私には届かないものになってしまった。

「在日問題」などを、当時、正面から取り上げることは戦闘的なことであった。

しかし、そういう民族問題そのものが、カルトやテロをへた00年代の今では、問題自体が解消したわけではないはずなのに、なんて遠くへ行ってしまったと感じられることか。
韓流ブームとか、日韓関係の変化の兆しとか、意識が全く変容したことははっきりしている。

そういう状況の今では、役者の力量とかのレベルでなく(今回の役者陣はプロフィールから見て、かなりの実力を持っている)、むしろ役者としてはうまいにもかかわらず、芝居のなかで、ことばに強度を持たせ、苦しみや悩みを具体化させることが困難になってしまっていた。


これは強調しておくが、
芝居を批判しているわけでも、懐古趣味でいっているわけでもない。
時代も価値も変わってしまった、そういうことなのだと思う。
昔をしっているものとしては、立ち尽くすのみなのだ。




  1. 2008/12/16(火) 00:01:00|
  2. 演劇
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

プロフィール

カトリ ヒデトシ

Author:カトリ ヒデトシ


最新記事

検索フォーム

ブグログ

リンク

このブログをリンクに追加する

カテゴリ

未分類 (1)
日記 (49)
演劇 (77)
映画 (7)
本 (27)
カテゴリ未分類 (76)
サッカー (3)
社会批評 (12)
旅行 (6)
北海道の生活 (66)

月別アーカイブ

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。